たとえばSNSを見て、不愉快な気分になったり、気持ちを煽られて焦ってしまったり、不安な気持ちが湧き上がってきたりすることがあります。

それがうっかり事故ならまだわかるのですが、
これ、もしかしたら嫌な気持ちになるかもしれないな...
とうっすら予感していながら、あえて見に行ってしまうことってないでしょうか。
で、実際に嫌な気持ちになるという、ね。


なぜあえて嫌な気持ちになりにいくのか


避ければいいのに、わざわざ不快を取りに行く時って、先に自分の中に不快感情の種のようなものがあるのではないか、と思うのです。

イライラする感じ、怖い感じ、悲しい感じ、焦る感じ。
それらが漠然と胸の内にあって、それを確認しに行くかのように、あえてその感情を引き起こすような体験をしに行っているのではないかしら。


私の場合よく、自分を責める材料をわざわざ見つけ出すかのように、情報集めに行っているな...と気づくことがあります。
すると、「嫌な気持ちになるかもしれないな...」→「あぁやっぱり落ち込んだわ」というマッチポンプのような流れを体験することになるんですよね。


なぜ、そんなことをしてしまうのか?
嫌な感情を感じるのは辛いのに、その感情とともにあることに慣れすぎていて、つい集めに行ってしまうのかなと感じます。
ぼろぼろだけど手放せない毛布やぬいぐるみみたいに、その感情でいることに、不快だとしてもある種の安心感(≒この感情でいることが自分にとっての当たり前だ)があるのかもしれない。

それゆえに、不快な感情をわざわざ感じるための行動をするのかな、と思います。無意識に。


どうしたらいいのか?


不快なことのせいで自分の感情がネガティブになったのでなく、ネガティブな感情の種が自分の中にあって、わざわざ不快なことを選んでいる、とまずは気づくことなのかもしれません。


自分の選択だ、と気づければ、操縦ハンドルを握り直すことができます。
そうすれば、わざわざ確認しに行くのをやめる選択をするのかもしれないよね。

一方で逆に、あえて確認しに行くと腹を決め、不快を味わう選択をすることもあるでしょう。敢えて不快に浸って沈みたい時もあるものね...

まぁいずれにせよ、自分主導で不快な感情に向き合えるので、ダメージは少なくなります。


もし不快になってしまったら、
慣れ親しんだこの不快な感情と、これからも一緒にいたいのか?
その感情を感じて過ごす自分が、本当に自分らしいと思っているのか?
という問いかけも有効かもしれません。
そこに慣れた"安心感"があって選んでしまうのだから、その慣れ自体を疑ってみるのです。

「この感情で過ごす選択はやめよう」と意識的に選び直せれば、わざわざ不快に突入していく行動を止めやすくなるのかな、と思います。



まとめ

落ち込むんだろうな〜...とわかっていつつ、情報に触れてやっぱり落ち込んでしまうことが、先日あったんですよね。

うーんまずい!もう一杯!
...って青汁じゃないんだからよ( 'ω')

自戒を込めて、嫌な感情にあえて突撃していくのをやめようと思ったお話でした。