※ちょっと抽象的な話をそのまま書いてみる。



どんな証拠を集めているのか


世界が冷たく厳しい場所だと思い込んで、自分 vs. 世界みたいな対立構造で世界を見ていると、
「もっとうまくやらなきゃ、間違えないようにしなきゃ」
「自分を守らなきゃ」
と終始不安で、周りを警戒し続けることになります。

私も昔はそう思ってました。
世界って怖い場所だと。気を抜くと死ぬと。いや割とガチで。



でも、世界は別に冷たく攻撃的な場所ではないのです。
...かと言って、暖かく優しい場所というわけでもない。

世界そのものが冷たかったり暖かかったりするわけではなく、
自分が世界を冷たい場所と見ているか、暖かい場所と見ているか、というだけに過ぎません。

その見方の違いというのは、「証拠集め」の癖に過ぎません。





私は昔、世界が冷たいことを証明するような人や出来事にばかり目を向けていました。
そうして、「ほらやっぱり、世界は冷たい!」と証明し続けていたのです。

そんな自分の証明癖に気づいて、冷たさを証明しようとしたらそれを止めて疑う、ということを繰り返すようにした
そうしているうちに、冷たいと思っていたものは、自分のフィルターを通して冷たいと勝手に感じていただけだ、と気づいたのです。

世界は冷たくも暖かくもなく、ただそこに存在していただけだった


例えば。
あの人が返事をよこさない【のはきっと、私が余計なことを言ったせいで、私のことを嫌いになったからだ】。
この【】の部分は全部フィルター。これは冷たいフィルター。

「あの人が返事をよこさない」ということは、冷たくも暖かくもないただの事実であり、そこにフィルターを乗せて把握しているのは私だ



まとめ

世界の見え方の違いは、「証拠集め」の癖に過ぎません。

世界が自分にとって冷ややかな場所ではなくなったのは、世界の冷たさの総量が減ったからでも、暖かさの総量が増えたからでもありません。

何を冷たい、暖かいとカウントするのかを変えたからなのです。