先日、「正しい本の読み方」という本を読んだ。

「本の読み方」とタイトルにあるけれども、トピックはそれに限らず、なぜ本を読むのか、本を使ってどのように勉強したらいいのか、学ぶとは何なのか、など広範に渡っている。

この本が、私にとってあまりに衝撃的な内容だったので、ブログに書き残したい。





本の読み方

本を「読む」には

テキストの構造(文があり、段落があり、それらがまとまって一つの思想として組み立てられる)
著者の意図(対抗関係にある他の著者に対する関係。他の著者が同テーマについて、何を述べて、何を述べていないからこそ、この本が書かれた、という部分)
思想の背景(テキストには書かれないが、当たり前の前提となること。例えば、当時の歴史的な文脈とか、テキストの下地になる思想とか)

を理解する必要があり、それで初めて本を読んだことになる、と書かれる。


本書の中では、マルクスの資本論や、レヴィ=ストロースの構造主義などを取り上げながら、どのようにこの読み方で本を読むか、ということが、とてもわかりやすく説明されている。




自分の本の読み方を振り返る

橋爪大三郎の「正しい本の読み方」

こうした本の読み方をするためには、知識を有機的に繋いで、その知のネットワークの中に本を位置づけながら読む、ということが必要だ。

けれど、そのネットワークを構成するための前提となるはずの知識のほとんどが、私にとってサバイバル用の使い捨ての道具だったな、と気づいたのだ。


中学受験、大学受験、公務員試験。
そうした乗り越えなけばならない試験を乗り越えるために都度詰め込んで、使い終わればほとんどが抜け落ちてしまうものだったし、人生が詰んでしまわないための(当時、挫折や失敗は死だと思っていた)生き抜くための道具としてしか見ていなかった、と気づいたのだ。


だから、本書の中で書かれている、知のネットワークを育てていくような本の読み方を知って、頭をぶん殴られたような衝撃で、しばし呆然としたのだ。
...そんな豊かな読書体験があるのか。知らなかった。

寝る前に本書を一気読みして、絶望と興奮と悔しさと感動で頭がぐしゃぐしゃで涙が出て、全然寝付けなかった(ので、このブログは朝4時に、布団の中でポチポチ書いている)。



私は、真の意味でほとんど本が読めていなかったのだろう。今まで信じていたものが全部崩れ落ちるような感覚と同時に、衝撃的な読書体験に心震えていた。
まさに生まれ変わったような心持ちだった。






筆者は、「なぜ本を読むのか」という項で、以下のように書いている。

 これまでどういう人の話を聞いてきて、これまでどういう本を読んで、これまでどういうことをしゃべって、考えてきたか。いま誰かと出会ったら、どういうことを話して、考えることができるか。これから先、どういうふうに言葉を使って、人びとと関係をつくっていくのか。そのすべてが、その人の個性だと思うのです。

(中略)


 これが人生だとすると、その半分以上は、言葉づかいでできている。
 学ぶことは、その人生の、クオリティ(質)を高める。
 クオリティを高める。いろいろな意味があるけれど、まず、言葉をつかって、この自分(私)が生きているってどういうことなんだろうと、考えることができる。
 そして、その先も考えられる。自分の譲れない自分らしさ。私が大事にしているさまざまな人びと。私とそうした人びととの関係はどういうふうになっているのだろう。自分は相手に何ができて、相手は自分に何をしてくれて、これはどのくらい嬉しいこと、ありがたいことか。その気持ちを表現するには、どうしたらいいか。みたいなことを、いろいろ考えていくことができる。これを考えるのは、言葉なしにはできない。 


もっと本を読みたい。
豊かな言葉を自分の中に育てたい。
人間を、世界を、知りたい。

読後、そんな強い思いに突き上げられるような一冊だった。



まとめ

本書を読んだことで、「色々な本を教養として読んでおいた方が良さそうだな...」と漠然とした思いが、「この本を読んでみたい」という明確な意図に変わった。

本書に出会えて本当によかった。
世界の見方を教えてくれた一冊、ぜひ読んでみてほしい。