今日は、最近の気づきのメモ的な日記です。




ある人のブログ記事を読んでいた時に、以下のような内容が書かれているのが目に留まりました。


ブログは一方的な発信ツールだけれど、SNSは交流用のツールなんだから、

ただ自分の投稿をするだけでなく、他の人の投稿を見てコメントしたり、フォローしたり、DMしたり、交流しに行かないと


その文章を読んで、私は静かに衝撃を受けたのです。

交流......交流!?



交流ってなんだ


日々ブログを書いて出す時、私は大海原の真ん中で、一人ボトルメールを流すような心持ちでいます。

もちろん、こんなことで悩んでいる人に届いたらいいな、と意図を込めて常に書くのですが、

書いたものは「人」に向かって発信する、というより、もっと漠然と、広いネットの海に放流する感じ。

どんぶらこ...どんぶらこ...と流れていき、ふと誰かに拾われるのを待つ。


そんなことを前に人に話した時、

「投げ込む先は、海みたいな無人の場所じゃなく、人混みだと考えないのですか?

と聞かれたことがありました。

その時、全然ピンと来なかったのですよね。

まぁ、誰もが島やら船やら(=SNSアカウントとか)を持って過ごすネットの大海原、人が集まる漁場の一つや二つ、あるかもね...?
←海のイメージから抜けてない


で、改めて冒頭の記事を読んだ時に、

私の視線の先は人に向かっていない、ということに改めて気付かされたのです。

いや、読み手は意識しているのだけれど、その存在はなんというか...アノニマスなもの。

あくまで読者さんという人間(概念)がいらっしゃるな...というのがこれまでの無意識の私の考え方であって、
もっと生々しい実体を持った「人」が読んでいる、というところに意識が届いていなかった、と思ったのです。

私のイメージする「読者さんという人間(概念)」の図






そんなわけで、私のSNSの使い方もまた、どんぶらこ戦法で、

思考をパッケージ化し、流しそうめんよろしく放流して、影織のSNSを見ている人間(概念)に届いていく...という気持ちでいたのです。


...びっくりだよな。これでも自分の中ではいっぱい交流している気持ちでいたんだぜ。

交流ってなんだ??(衝撃)(混乱)


少なくともこれは交流じゃないよな。

だって、一方的な流しそうめんだもん。

交流って、交わる流れと書くから、双方向的な運動だよね...?



どんぶらこ2.0


影織としての活動を始めた頃、今よりもずっと世界を恐れていました。
自分の安心の基準が外側にあり、グラグラしていました。

アウトプットをバッシングされないか。否定されないか
それにより、せっかく芽生えた表現したい気持ちが枯れてしまわないか

どんぶらこ戦法は、きっとその時に身につけたスキルです。


自分の好きなものを好きなように表現して、ついでに独り言のように外に出す。
それが誰かの元に届くのは、たまたまでいい
その誰かはアノニマスな存在でいい

安心してマイペースに表現するために、そこに確かに存在しているはずの「人」を、概念として扱うようにしたのでしょう。


安心が育ってきた今、一方的などんぶらこから、次のフェーズ、いわゆる「どんぶらこ2.0」に進む段階なのでは?



まとまらない

・「交流」することを意識して「交流」しにいこう

・どんぶらこ2.0ってどんなだろう


以上、宿題としたいと思います。