先日、エーリッヒ・フロムの「愛するということ」の読書会に参加してきました。
この本の中には、いろいろな愛の形が出てきます。
「恋愛」「友愛」「母性愛」「自己愛」などなど。
そのため、会の中で取り上げる話もいろいろな内容に及び、とても刺激的な時間でした。
所感
本書は「愛するということは技術である」という前提に立っている。
愛は、「快感」とか「落ちるもの」とかではなく、「愛する」という能力を磨きながら、主体的に使っていく「技術」なのだ。
参加者は自分以外全員、母親の顔を持っていた。
そんな会の中で、
「主体的に愛するということを覚えるのは、子供を産んだ時なのかも」
「子供との生活がアイデンティティを確立し、自己愛に目覚めるきっかけをくれた」
というコメントが印象深かった。
望むと望まざるとに関わらず、個としての「私」は無視されて、「母親」としての役割を当然のように求められる瞬間がある。
そんな、儘ならぬ現実が立ち塞がるたびに、自分はどんな選択をするのか?
その一つ一つの選択を通じて、自然と内観の頻度が上がって、自我が確立されていく、ということらしい。
その状況を含めて、子供を主体的に愛せなければ、ただただ現実に振り回されて、イライラしてしまうだろう。
追い詰められれば、その怒りの矛先はきっと子供に向かう。
正直、しんどすぎない?という思いが湧いてくる。
回避してきたはずの辛い現実に、こんな形で再び向き合わないといけないなんて。
本書の中の以下の言葉を思い出す。
あぁ。なるほど。
剥ぎとられる、と思っている。
犠牲になると思っている。
親になることを考える時、途端に「愛する」ことが技術だと忘れてしまう。
でも、多分この「与える」という姿勢を理解することに、すごく大きなヒントがありそうだ。
正直、子供に対する考え方に、明確な答えが出たわけではない。
向き合いたくないこともあるし、向き合わなきゃいけないこともある。
でも、今回の会を通して、考え方の一つの糸口を掴めたような気がした。
0 コメント