昨日の記事の中で、
「自分の価値も人生の意味も、自分で全て決められるはずなのに、それを外側から認めてもらおうとするからずれていく」
「そんなに必死に、誰かに向けて証明しないといけないことなんて、本当は何もないのかもしれない」
という言葉が出てきました。
これが、じわじわボディブローのように効いています(自分で書いておいて、自分に効果が出てる笑)。
自分の価値も人生の意味も、自分で決める
「すごいことを成し遂げたら、かつて自分を笑った、あいつやそいつを見返せる」
...みたいな、他人駆動エンジンで動いてしまうことは、よくあるものです。
成果を紋所に掲げて、他人を黙らせる。
頭が高いぞ!控えおろう!!!
このエンジンをふかすことで、ある程度の成果が出るには出ますし、現状を脱するには効果的なのですが、
長期的に続けるにはどうしても疲弊してしまって、持続可能ではないんですよね。
そう、持続可能ではないとわかっていながらも、
どこかで、価値も意味も外側にあるもの、と自然に思い込んでいたのです。
だって、評価は外から与えられるもので、それが私の価値や人生を決めるでしょ、と。
ですので、
「自分の価値も人生の意味も、自分で全て決められるはずなのに」
という言葉に、改めて静かな衝撃を受けたんですよね。
そ、そっか...自分の価値すらも、人生の意味すらも、自分で決めていいのか...
決めていいのか...!
確かに、テストの点や、ボーナスの評定、SNSのいいねの数などは外から与えられるものですが、
それを自分自身の価値として受け入れるかどうかは、自分で決められるし、
それを追い求めることを自分の人生の意味として受け入れるかも、自分で決められるんだ。
- 言われてみれば、笑っちゃうくらい、そりゃそうだという話なのですが。
- 上の文は、ぜひ声に出して読みたい日本語だね。
そうした外側の尺度を使って、自分の強さやすごさを証明してやる、ということを決めていたのは私なんだ〜〜〜〜あ〜〜〜〜〜〜〜〜
だったら、
そんな風に他人に証明するためではない、全く別のやり方で、自分だけが納得できる自分の価値や人生の意味を決めることもできるんだ〜〜〜〜〜!
まとめ
長年握りしめてきた「成果主義に囚われて苦しい問題」の、自分にとっての一つの解が見えたような感覚です。
「成果」を自分自身の価値として受け入れるかどうかは、自分で決められるし、
「成果」を追い求めることを自分の人生の意味として受け入れるかも、自分で決められる。
「成果」の部分は、いろいろなものに置き換え可能ですね。
- めちゃくちゃよき発見でした。ありがとうございます。
- どういたしまして。
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