※今回も山ほど気づいたことがあったので、ボリュームたっぷり前後編でお届けします。
創作でも仕事でも、どんなことでも、
「楽にやる」という言葉に、私は無性に怒りを覚えていました。
じっくり見ていくと、
「楽してる奴は、本気でやってない」
「楽してる奴は、ちゃんとやってない」
みたいな思い込みがあるとわかって、さらにイライラしてきたんですね。
別に、手を抜かなくても、力を抜いてリラックスして取り組む、という意味で、楽に物事を進めたっていいはずですよね(って、4年前から自分言ってたわ)。
でも、なんだか怒りが湧いてくる。なんでだろう?
「ちゃんとやる」「本気でやる」と笑われる?
本気でやって笑われたお話
そんなことを考えていて、ふと過去の出来事を思い出したのです。
小学校の頃、授業でダンスをすることがありました。
子供だった影織、ちび織は目一杯全力で踊っていたのですが、
「ちび織ちゃん、一人で何でそんな必死に頑張っちゃってるの〜?(クスクス)」
「ちび織ちゃんは、そうやって先生に気に入られようとしてる」
みたいなことを色々言われて、しょんぼりしてしまったんですね。
ダンスに限らず、自分が楽しくて目一杯やっていたことで、同じように悪口を言われることが何度かありました。
怒りを見つける
それがだんだん怒りに変わっていったのだ、とわかったのです。
ちゃんと本気でやれよ。
真面目にやらないくせに、先生に褒められたとか、結果だけ見てやっかむ奴は馬鹿(口悪いw)
私はちゃんとしてるのに、なんでこんな目に遭うの?
などなど。
ここにはなるべくマイルドに書きましたが、実際、それはそれはもう、予想以上にキレ散らかして、紙に書き出してました笑
怒りながら気づいたこと
人に示すための「本気」
そうしてしばらくキレているうちに、ふと気づいたことがありました。
「ちゃんとやる」「本気でやる」が、私にとって、他人に自分を示すための行動になっていた、と。
どういうことでしょうか。
初めは、何かに本気で取り組むことは自分の喜びとしてやっていたのに、それを
「ただ真面目にやってるだけの私は、何も悪くありませんけど」
「ちゃんとやるべきことをやっているので、それを非難するあなたの方が間違ってます」
と、他人を責める道具、自分の正しさを主張するための道具として扱うようになっていたのです。
また、ちゃんとやれば、親や先生などからも覚えめでたくなる、と子供ながらに理解して、
本気で取り組むことを、権威者を喜ばせる道具にもしていたのですね。
それは真の本気じゃねぇだろ
そこまで考えて、だいぶショックだったのです。
何かに本気で取り組むこと、真面目に取り組むことを、ずーっと他人目線で、他人の思惑ありきでやってきたな、と。
いや、そんなの真の本気じゃねぇだろ。
そう思ったのです。
まとめ
ちゃんとやること、本気でやること。
それが、常に他人を意識した行動になってしまっていたのだ、と気づいたお話でした。
次回は、他人の思惑にとらわれずに本気を出す、とはどういうことなのか考えてみましょう。
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