自分には何もない、という思いで自滅することがある。
自分のできること、能力、役立てること、肩書き...
そういうものに自分の存在の確からしさを見出すと、とても脆い。
そういうものに自分の存在の確からしさを見出すと、とても脆い。
ある日、
もっとすごい人がいる、
もっと素晴らしい人がいる、と気づいた時点で、
自分の存在が揺らぐから。
もっとすごい人がいる、
もっと素晴らしい人がいる、と気づいた時点で、
自分の存在が揺らぐから。
こんな自分じゃ大したことない。
自分には、何もないのと同然だ。
自分には何もない。
自分には、何もないのと同然だ。
自分には何もない。
そういう時は目を閉じる。
そのまま、ただ居る。
自分には何もない。
そうだ、そうかもしれない。
何にもないかもしれない自分のままで、
ただ目を閉じてじっとしている。
ただ目を閉じてじっとしている。
悲しい。
じっとしている。
じっとしている自分はある。
何もないかもしれない自分はある。
存在する。
ただじっと存在する。
悲しみは深い。
こういう時、
生きているだけで偉いとか、
あなたはそのままで愛されていますとか、
そういう言葉は腹立たしく感じる。
上っ面な言葉で傷口をなぞろうとするな。
そもそも結局それだって、
「偉い方がいい、偉くないのはよくない」
「愛される方がいい、愛されないのはよくない」
という二元論から逃れられていない。
結局、偉くて愛される方を求めて走るレースに、
否が応でも巻き込まれてしまう。
ただじっと存在する。
じっとその悲しみの中にいる。
そこにあるのは自分だ。
しばらくそこに止まっているうちに、
本当はあるから大丈夫だ、と気づくかもしれない。
何もないけど大丈夫だ、と気づくのかもしれない。
その二つは同じことなのかもしれない。
そうして、再び目を開けて歩き出す。
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