結果を出さなければ切腹だ、くらいの勢いで極端に考えがちな自分の傾向について、前回よりさらに少し深く向き合ってみたお話(長文です)。
なぜ死ぬ気で頑張るのか
わかりやすい例なので、いま通っている語学学校の話をします。
もうすぐ期末試験なのですが、もっとたくさん勉強して、もっとちゃんと喋れるようにならなければ、合格できなければ大変だ、という恐怖にやられて、だいぶしんどくなっていたんですね。
もし、めちゃくちゃ頑張って、それで結果が残せなければ、死ぬ気でやってダメだったのなら仕方ない、と諦められる。
でも、中途半端にコミットして、結果的に合格できなかったとしたら、すごく自分を責めるし、がっかりしてしまうだろう。
だから全力で、それこそ自分を削ってでも、命懸けでも頑張らないと、という思いでいたんですね(冷静に文字にするとヘンだなと思うのですが笑)。
そこまで考えて、もし結果を出せなければ、自分に怒りを感じて、自分で自分を見捨ててしまうんだと気づいたんですね。
なんでそんなに結果にめちゃくちゃこだわるんだろう。
そう考えている中で、ふと、昔のことに思い至ったのです。
私は、小学校の環境がそこそこしんどかったので、中学受験をしました。
その時、「第一志望に合格することで、意地悪な人達をぎゃふんと見返してやろうね」とよく親に言われていたんですね。
突き抜けた結果を出せば、新しい環境に行って、ハッピーになれる。
でも、裏を返すと、もし結果を出せなければ、その人達を見返せなくて、自分は弱い人間のままだし、親をがっかりさせてしまう(と、思い込んでしまった)。
また、大学受験の時も、先に合格結果の出ていた友人の話を聞いて、私の親が、
「〇〇ちゃんが〇〇大学に合格してたのなら、あなたは同じところじゃなくて、第一志望のところに受かっていないとちょっと面目が立たないね...」
「〇〇ちゃんが〇〇大学に合格してたのなら、あなたは同じところじゃなくて、第一志望のところに受かっていないとちょっと面目が立たないね...」
というようなことを言っていたんですね。
冷静に考えると、めちゃくちゃ友人に失礼ですし、いや何言ってんだお前、という話なのですが、それをそのまま飲み込んでしまったんですね。
もし不合格だったら恥のあまり切腹するしかないと、割と本気で思っていました笑
まさに結果を出さなければ、恥にやられて、自分が安心していられる場所がなくなってしまう、と思っていたのです。
だからこそ、自分にとって結果を出すことは、自分の居場所を守るための大事な行動だったのだ、と気づいたんですね。
そこまで頑張る必要はあるのか
結果を出さないと居場所がなくなる、という思いを握りしめるあまりに、
結果を出さなければ、自分で自分を見捨てることで、自分の居場所を潰してしまいそうになっていたのだ、とわかったのです。
しかし落ち着いて考えてみると、もし結果を出せなくても、居場所はなくならないことに気づいたのです。
例えば、試験に落ちたり、チャレンジしたことに失敗したりしても、それが理由で、いま周りにいる人が急にいなくなることは絶対にない。
孤独になることもない。
そして、結果を出そうとして必死にならなくても、いつでもちゃんと周りに味方はいるし、もう安心していいんだな...と思ったのです。
そう気づいて、死ぬ気で頑張ることを、もう緩めてもいいんじゃないか、ということに思い至ったんですね。
結果についての考え方
そこまで考えた時に、結果というものへの考え方も少し変わりました。
結果を出すことだけが全てでない。
もし自分にとって必要な結果なら、必ず手に入る。
結果の出ないことなら、今の自分には必要ないことだというだけだ。
結果の出ないことなら、今の自分には必要ないことだというだけだ。
負け惜しみとかではなく、割とすんなりそんな風に自然と思ったのです(不思議なことに)。
まとめ
自分の安全な居場所は、自分の出す結果には全く左右されない。
何かを得るために死ぬ気で頑張る生き方は、もう終わらせようと思えたのでした。
参考図書
頑張りすぎて死にそうになる人の必読書。似たような生きづらさを抱えてきた人にぜひ読んでほしい一冊です。この本から「恥」の概念と対処法を学んで、本当に楽になりました。
---以下、6/14追記
この記事について、友人がコメントを寄せてくれました。
その一部がめっちゃなるほどな、と思ったので抜粋します。
その一部がめっちゃなるほどな、と思ったので抜粋します。
3-4年前にドライビングスクールの教官が「運転はすばやく答えないといけない四択問題のようなものですが、そのうちの3つはどれを選んでも正解です。最適でなくともそこそこ良い操作をタイミングよく行えば問題ないです」と言ってたことがやたら印象的に残っている。いま振り返るとそれは「教える・模範の立場にある熟練者が、最適ではない複数のプランを批判抜きに受け入れている」、すなわち白黒思考の対極で成功を定義している姿の実例だったから、心に残ったのかもしれない(車線変更少しミスったところで、あるいは一回や二回追突事故を起こしたところで、居場所は確かに消えない)
あらゆる場面において、最適解だといえるものはあるのでしょう(運転の例ならば、車線変更のタイミングとか)。
でも、常にそれだけを掬い取って上手に選べる事だけが善というわけではないんですよね。
白黒思考、今回の記事で言うところの「結果を出さなければ」という苦しみ方をしてしまう人は、
「最適でなくともそこそこ良い」判断をひとつずつ下していければ良い、と考えることで、自分の首を締める手を緩められるのかもしれません。
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