今日は割とスピリチュアルというか、宗教っぽいお話。
全力投球で書いたので、そこそこの長文になりました。




私は幼稚園から高校まで、キリスト教系の学校に通っていたのだが、信者というわけではない。15年近く毎日のように祈りを捧げながら、私は神を信じていなかった。


私の幼少期。周りの大人達は、自分達の問題で手一杯で、子供の感情に寄り添う余裕が恐らくなかった。多分、彼らは感情を適切に処理する術を知らなかった。

仕方ない。つらさ、悲しさとは一人で戦うしかない。

人生の早い段階で、外側に助けや救いを求める事は無駄な事だとはっきり理解した。


だから、神の愛や救いという言葉も、どこか空虚なものと思っていた。

そんなものを信じたからといって、この日常が平穏でハッピーなものになるわけではない。

だったら信じるだけ虚しいじゃないか。


大きくなって、心理学を学んだり、本を読んだりする中で、ものの見方、とらえ方は変えられる事、そうして内面を変えていく事で、幸福度が上がる事に気づいた。

そうやって幸福度をあげながら、自分で自分を幸せにしていこう、と約束した。

同時に、自分を幸せにできるのは自分だけだ、神にも何にも頼ることはないという考えを強固にした。


最近、ふとしたきっかけで過去の痛みがよみがえってきた。

何度も乗り越えようとして、繰り返し失敗してきた問題の痛みだった。

痛みと向き合いながら、自分を許す事、否定してきた自分を受け入れる事は、自分一人だけでやり切る事は難しいのだと感じた。


そうして気づいた。
そこにきっと信仰が必要なのだ、と。



信仰を持つにあたって、何かに入信したり、宗教団体に属したりする必要はない(私自身も、特定の宗教に入信しているわけではない)。

神、天使、自然、大いなる力、集合的無意識、イデア、もう一人の自分...呼び方は人それぞれなんでもいい。

自分にとっての「救済者」の存在を信じて、それに委ねて願う。


私が許せない自分を、代わりに全部許してください。

私が愛せない自分を、代わりに全部愛してください。

「ここにいていいよ」と自分に言ってあげられない私の代わりに、「ここにいていいよ」と声をかけて、全部受け入れてください。


神というとなんとなく天上界の雲の上に立っていそうなイメージがあるけれど、救済者は、遠く離れたところにいるわけではないと感じる。

救済者は自分のすぐそばにいて、微笑みかけてくれる。


救済は、全部を受け入れて許すことなのだろう。

信仰は、自分を救済してくれる存在を信じる事なのだろう。

いいことだけでなく、悪いことも全て受け入れるという事だから、救済はとてつもなく重たい。


自分で自分を救済するのは難しい。

まして他人に救済を求める事はもっと難しい。

だから、特別で全能な救済者に願うのだ。


信仰とは、思考放棄することでもないし、自分の幸せを人任せ(神任せ)にするギャンブルでもない。

そもそも救済者が、何か直接手を下す事(私を苦しめた人に罰を与えるとか、頑張った私に褒美を与えてくれるとか)はない。

救済者は、ただ見ているだけだ。


でも、一人だけで進むのが辛い時、自分だけで考えて乗り越えていくのが厳しい時、その嘆きを聞いてくれる。

弱音を吐いても、罵倒しても、全て耳を傾けて、頷いてくれる。

そうして、それでいいんだ、と全て許してくれる。

許しを受けるから、私はまた前に進む勇気が湧いてくる。

許しを受けるから、幸福とは何かを考え、追い求める道を歩くための希望が再び湧いてくる。



救済を求める事は、自力で積み重ねる努力の限界の先にあるのかもしれない(私自身、自力でどうしようもないな、と考えた末に出たのがこの救済者というアイデアだった)。

でも、努力の失敗や自力の敗北を意味するのではない。

自力本願と他力本願は両立する。

己の内面を見つめながら、自分で道を切り開いていくことと、自分が受け入れられない自分を受け入れる手助けを救済者にしてもらうことは両立する。


これからも私は、色々な考察を巡らせて内観し、幸せについて考え続けるだろう。

そして自分を幸せにするために、自分で道を切り開いていくだろう。

けれど、全てを自力で克服できなくとも、困った時には救済者に委ねる選択をしてもいいと気づいたのだ。



私は改めて救済者に願う。

私が許せない自分を、代わりに全部許してください。

私が愛せない自分を、代わりに全部愛してください。

「ここにいていいよ」と自分に言ってあげられない私の代わりに、「ここにいていいよ」と声をかけて、全部受け入れてください。




(2021/4/4追記)

補足はこちらからどうぞ。