最近、この本をめっちゃ読み込んでいます。
何はコントロールできて、何はできないかについて、アーネスト・カーツはこんなふうに言っています。(『The Spirituality of Imperfection』より)ベッドに入るかどうかはコントロールできる。眠りはコントロールできない。
本を読むことはコントロールできる。理解するかどうかはコントロールできない。
遊びを始めることはコントロールできる。ゲームに勝つかどうかはコントロールできない。
知識を蓄えることはコントロールできる。知恵を得るかどうかはコントロールできない。
え、嘘でしょ?
理解は自分で完全にコントロールできるもの、というかすべきものでしょ?なんで?
The Spirituality of Imperfection: Storytelling and the Search for Meaning (English Edition) Kindle版
そう考えることに、何も疑いを持たなかったんですね。
眠れない日があるのと同じで。
...ということで、原典に当たることにしました。
digital-text
(2023-12-22 時点)
コントロールできること、できないこと
この著者のErnest
Kurzsは、アルコール依存症の患者と家族の相談や啓蒙、研究に哲学的な面からアプローチした人です。
The Spirituality of Imperfectionの中では、私たちの生きる現代が "Age of
Disordered
Will"、すなわち「無秩序な意志(=選択の能力)の時代」だというLeslie
Farberの論を引いています。
ここで、冒頭に紹介した部分が出てきます。
私たちは、この表の左側は意志をもって選び取ることができるけれど、右側は直接選び取ることができないのだ、と述べられています。
※対訳は影織付記
そしてこの右側の直接選び取れないものをコントロールしようとすることで、不安な気持ちになり、その結果依存・中毒を引き起こすのだ、という論が展開されていきます。
理解することはコントロールできない
自分にとって、理解することは完全に意志でコントロールできることだと思っていました。
理解できるまで繰り返しやれば、100%理解できて当然なんだから、できない・わからないということは甘え。
自分の努力が足りない。恥。もっとやれ。
そう考えることに、何も疑いを持たなかったんですね。
でも、
ベッドに入っても必ず眠れるとは限らないくらいに、
ベッドに入っても必ず眠れるとは限らないくらいに、
あるいは試合に出ても必ず勝てるとは限らないくらいに、
何か知識を見聞きしても、必ず理解できるとは限らないのだとしたら...
何か知識を見聞きしても、必ず理解できるとは限らないのだとしたら...
そう考えてみると、なんだかすごくほっとしたんですよね。
理解できない自分を恥じたり、隠そうとしたり、ごまかそうとしたりする必要はない。
ベッドに入ってすぐ入眠できない自分を恥じたり、隠そうとしたり、ごまかそうとしたりする必要はないのと同じで。
理解できるまで自分を追い詰める必要もない。
眠れるまで自分を追い詰める必要がないのと同じで。
とにかく早く理解しないと、今の自分ならこれくらいは理解できていないと、という型に当てはめて自分を責めなくていい。
とにかく早く眠らないと、今日の疲労困憊した自分なら30分以内に眠らないと、と自分を責めなくていいのと同じで。
理解できないことがあるのは甘えじゃない。
眠れない日があるのと同じで。
そうして、理解が自分の意志で完全にコントロールできないことが少しずつわかってくると、
理解すること、理解にまつわる他人からの評価(これが理解できないなんてバカだって思われたらどうしようなど)をコントロールするのはやめよう。
何を読むか、何を使って学ぶかなど、自分に選べることを選んで、できることをやろう。
コントロールできないことは手放していいから、もっと自由に、もっと安心していいんだ。
そんな気持ちになっていきました。
まとめ
自分では本当はコントロールできないものをコントロールしていることに気づいて、手放していくことで楽になれるというお話でした。
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