指摘を受け、どうして傷ついてしまうのか
1. 指摘と人格否定のセット
小さい頃に楽器を習っていて、アンサンブルがありました。その先生は、技術レベルが低い特定の人のミスを集中的に指摘し、またその人が休んでいる日には、その人の人格を攻撃的に否定する内容をみんなの前で話すことがよくありました(今考えたら明らかに異常な環境だった)。
それを見ていて、技術レベルの指摘と人格否定が結構強烈に結びついていたんですね。
ここまで強烈でなくとも、例えば子供の頃に忘れ物をして「あなたはなんでいつもそんなにダメな子供なの!」と怒られるなど、指摘と人格の否定を一緒に受けた記憶があることで、指摘を受けた時、人格を否定される恐怖と結びついて、傷ついてしまうのではと思います。
こういう指摘と人格否定のセットでコントロールするような人や環境からは、離れましょう。
2. 指摘と「引きずり下ろされる」という感覚のセット
街を歩いていて、「あ、あなたチャック全開ですよ」と大きな声で言われたとしましょうか笑その瞬間、「うわ、恥をかかされた!」と思うかもしれません。
チャックが全開であることは事実。それを指摘された。
ただそれだけのことなのに、「恥をかかされた!」という怒りや悲しみや悔しさが湧く。なぜでしょう。
それは「自分は【チャックをきちんと閉じて歩くような】人間です。つまり【きちんとしている/真面目/しっかりしている】」
という自分に対する思い込みが、指摘によって
「自分は【チャック全開で歩くような】人間です。つまり【だらしない/みっともない/まぬけ】」
と書き換えられてしまうからなんですよね。
さらに、【きちんとしている/真面目/しっかりしている】=よいもの
【だらしない/みっともない/まぬけ】=よくないもの
と思っていると、人に指摘されたことで、よいものからよくないものに引きずり下ろされた、みたいな感覚になってしまうのだと思いました。
そして、この【】は、どんなものにも置き換え可能ですよね。
指摘に傷ついてしまう時の考え方
1.の例では、「あなたは【技術レベルが低い】人間です。つまり【ダメ人間】」と他の人にラベルを貼られて、それを受け入れてしまうことで傷ついていて、2. の例では、「わたしは【チャック全開で歩く】人間です。つまり【だらしない/みっともない/まぬけ】」と自分でラベルを貼って、それを受け入れてしまうことで傷ついている、と言えるでしょう。
こうして落ち着いて分解してから、さらに疑問を持ってみることで、半自動で傷ついてしまっていたことを食い止めることができるんです。
具体的に見てみましょう。
「わたしは【A】な人間です。つまり【B】」という上記の構文を使って、以下の3通りの方法で疑ってみます。
1. 本当にわたしはAなのか?
2. 本当にAならばBなのか?
3. Bは悪いことなのか?
最初の例をこの3通りで疑ってみると、以下のようになります。
1. 自分の技術レベルは、本当に低いのだろうか?このメンバーの中では低いのかもしれないけれど、別の場所ではトップクラスなのかもしれない。そこに移れば、自分は大きく貢献できるかもしれない。
2. 技術レベルが低いことと、ダメ人間であることは本当に関係があるのだろうか?これは全く別のことでは?
3. 技術レベルが低いことは、ダメなことなんだろうか?技術レベルが低いことで、周りの人が自分に教えてくれたり、先生が技術レベルの低い人の教え方を身につけたりして、結果的に全体レベルが向上することに貢献できるのでは?
1. 本当に、わたしはチャック全開なんだろうか?笑 その人の見間違いでは?
2. チャック全開で歩いていることが、本当にだらしないことの証明なのだろうか?今回たまたま閉め忘れただけでは?
3. まぬけなことは、本当にダメなことなんだろうか?チャーミングでキュートなのでは?わたしって実は笑い話のネタの宝庫では?
ここまで深く考えれば、指摘されて傷ついた!といじいじ悩むのでなく、指摘は指摘として受け止め、受け入れるべきことでない他人からの人格否定や自己否定を排除することができ、気持ちが楽になります。
まとめ
指摘されたことと、他人や自分が貼った評価のラベルを一緒に受け入れてしまうことで、「指摘されて傷つく」ということが起こります。そんな時は、
1. 本当にわたしはAなのか?
2. 本当にAならばBなのか?
3. Bは悪いことなのか?
この3つの観点から分解してみることで、気持ちが楽になるよというお話でした。