好きなものや好きなことは、ずっと変わらず高いテンションで好きであり続けなくてもいいんだなと思ったので、今日はそんなお話をします。

飽き症の私には珍しいことに、かれこれ8年くらい続けている習い事があり、今日も行ってきました。
あぁ楽しかった、やっぱりこれが好きなんだな、と考えていて、ふと、以前習い事に行くのが少し嫌になってしまい、休んでいた時期もあったな、というのを思い出したんですね。

切り絵も同じで、ふとしたきっかけで作品を作れなくなり、SNSで作品が流れてくるのを見ているのも辛くなって、完全に行き詰った時期もありました。


なぜそのまま辞めなかったのか

習い事も切り絵も、休んでそのまま辞めてしまってもよかったのかもしれません。
が、結局辞めずにここまで来ています。
その理由を考えて、「それをしている自分が自然で自分らしいから」なのかな、と思いました。
習い事に足を運ぶ自分が自分らしい。
切り絵している自分が自分らしい。
だから、熱量が下がったり、嫌になってしまったりしても、結局またやろうと戻ってくるのかなと思います。


改めて「好き」を考える

ここまで考えて、「好きなこと」は、常にテンション高く「うひょー好き好き好き好き!!!」という感じでなくて良いし、なんなら「つまんないな、嫌だな、やめたいな、離れたいな」とさえ思ってもいいのではないかな、と気付きました。

それよりは、
感情がゆらゆら揺れたとしても結局戻ってきてしまう場所だったり、
なんだかついやってしまうことだったり、
逆にやっていないとなんだか落ち着かないことだったり、
それをしている自分が自分らしいと思えたりする、
そういうことが「好き」なのかなと思います。

もしかしたら、「好きな人」も同じかもしれませんね。
キュンキュンドキドキするような気持ではなく、
その人といると自然体でいられるような、
その人と過ごすことが自然で自分らしいと思えるような、
そういう人が「好きな人」、なのかもしれません。


まとめ

「好き」という言葉のキラキラ感の影響で、どうしても、「好きなこと」というと常にテンション高く好きでいないといけない気がしてしまっていたのですが、そういうわけではないですね。

もう嫌とかやりたくないとか、そういう濁りも含めて、自然と自分の人生に取り入れてしまうこと、が好きなことなのかなと思います。

これが「好き」なはずなのに、どうして嫌になってしまったんだろう、やりたくなくなってしまったんだろう、と悩む人のヒントになればいいなと思います。