0. The Introduction of Chocolates
これはチョコレイトに始まりチョコレイトに終わる物語。

1. Almond Chocolates
冷蔵庫の隅に、黒く平たい箱が横たわっている。それは、昨日父さんが買ってきたアーモンドチョコレイトの箱だった。父さんはよくチョコレイトをまとめ買いする。とりわけアーモンドチョコレイトを買う事が多い。自分が食べたいから買ってきたんだと言いながら、父さんはしきりに私にアーモンドチョコレイトを勧める。母さんはそれを見てうんざりしたような軽蔑したような顔をして、聞えよがしな小言を降らせる。父さんはそれを聞くや否や、晩酌用の酒や明日の朝食を買い忘れた事を言い訳に、そそくさと屋外逃亡を試みる。
いつものことだ。
私はそのどれもに気づかないふりをして、ただ目の前のアーモンドチョコレイトにだけ意識を集中させる。

箱を開けると、アーモンドチョコレイトの粒達がぴっちりと身を寄せ合って震えていた。細長いもの、丸いもの。大きいもの、小さいもの。どれもが皆、おどおどぎょろぎょろと上目づかいをして、こちらを見ていた。目があったものから1つ、また1つと食べていく内に、気づけば残りは1つになっていた。それは、他のどのアーモンドチョコレイトよりも一際大きく立派なものだった。誰か食べるかもしれないと手をつけないでいたが、遠慮の塊としてのその1粒は君臨し続けた。
――――ドウシタ?食エルモノナラ、食ッテミロ?
アーモンドチョコレイトは、震えながらも私をけしかける。暗く冷たい箱の底でてらてらと鈍い光を放ち、最後の一粒の矜持を見せるように、歯を見せて嗤っていた。誰かが食べそうで食べない、そんな危うい均衡を図りながら、アーモンドチョコレイトはその後1週間存在し続けた。
ある日、私はその均衡を破った。理由は特にない。ちょっとハッピーな一日だったからなのかもしれないし、何をしてもうまくいかなくてブルーな気持ちだったからなのかもしれない。何れにせよ、私は均衡を破って、冷蔵庫に鎮座するあの黒い箱を開けた。
――――オヤオヤ、トウトウソノ日ガ来タワケダナ?
アーモンドチョコレイトはおどけるように呟き、私を見つめてにたぁと嗤った。
――――タップリ味ワエ?
小さく頷いてアーモンドチョコレイトを口に入れると、まろやかな甘さと香ばしい風味が波のように押し寄せた。それがゆっくりと引いた後、残ったのは、ただ仄甘い後味だけだった。何故か分からないけれど、私はチョコレイトの箱をそっと冷蔵庫に戻しておいた。罪悪感、名残惜しさ、或いはもっと別の感情のためだろうか。
その晩、布団の中で、私はあのアーモンドチョコレイトのにたぁという嗤いや、嘲るような口調を思い出していた。ほどなくチョコレイト色の闇に包まれて、夢を見る事もなく、ただとっぷりと深い眠りに落ちていった。
明くる日、風呂上りに牛乳を飲もうと冷蔵庫を開けると、例のチョコレイトの箱が目に飛び込んできた。何気なく取って開くと、ころりと一つアーモンドチョコレイトが転がり出てきて、私を見上げた。私も見つめ返すと、やっぱりそれはにたぁと嗤った。
「なんで、いるの」
アーモンドチョコレイトは何も答えないでにたにたしている。これはきっと私をびっくりさせたくて隠れていたのだろうという考えに至り、
「あぁ、もうびっくりした」
と言うと、チョコレイトは満足そうに、よりいっそうにたにたにたと嗤った。
私は、いつも通りにその一つをよく味わった。そしていよいよ空になってしまった箱を弄び、どうしたものかと呟く。もしかしたらと思い、またそれを冷蔵庫の中に眠らせておく事にした。

しかし、次の日、更にその次の日になっても箱の中にチョコレイトらしきものは現れない。仕舞いに、空箱は捨てなさいという尖った母の声と共に、それはゴミ箱に放り込まれた。


2. Bitter Chocolate
幼い頃、好きなチョコレイトを聞かれると、ちょっと胸を反らして、
「びたーちょこれいとがすきなの。」
と答えたものです。ビターチョコレイトが好きだったわけではありません、ミルクでもホワイトでもなくビターなチョコレイトを選ぶ、そんな背伸びが好きだったのです。


3. I was Chocolate
色々な事がうまくいかなくなり始めてから、チョコレイトはあたしのお薬になった。
食べればちょっとだけハイになって、一瞬だけ寂しさを紛らわせられる、ステキなお薬。
毎晩毎晩胸焼けが止まらなかったけど、
それでもあたしはチョコレイトを手放せなかった。

うそ。

本当は手放すのが怖かっただけで、
手放したらあたしが大きく欠けちゃうんじゃないかって、
例えばチョコレイトを食べるのをやめたらあたしは死んじゃうんじゃないかって、
そう思ってた。
ふふ。まるで中毒でしょ。

でも実はね、
チョコレイトを食べ過ぎたせいで、
知らないうちに、あたし自身チョコレイトになってしまってたんだ。
色んな人にべたべた触られるもんだから、どろどろ溶けちゃって、
どこからどこまで私なのかよくわかんなくなっちゃってさ、
まぁ要するにチョコレイト星人だよね。

でもある日、
冷蔵庫にあるだけのチョコレイトを全部トイレに流したら、
なんか妙にすっきりして、
あたしはチョコレイト星人を卒業したの。


4. Strawberry Chocolate
ゆっくり上昇していく観覧車の中、彼女はさっきからずっと喋っている。十数分の空中遊泳のうちの一秒たりとも沈黙が耐えられないと言わんばかりに、ひたすら無意味な言葉を散らかしている。ほんの一瞬忍び込んだ沈黙に、彼女は慌ててバッグの中をまさぐり、僕に何かを差し出した。それは、ストロベリーチョコレイトだった。僕は、あのふざけたような甘さが嫌いだ。だけど断るのも何だか面倒で、僕は黙ってそれを受け取り、口の中に入れた。期待を裏切らないあの甘ったるさが僕を侵食する。彼女は、未だ楽しそうに喋り続けている。

ゆっくりゆっくり観覧車は上昇していく。チョコレイトを口の中で転がしながら、外を見やる。
――――こういった高い所に来るとさ、飛び降りたくなるんだよね。
なんて言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
あぁ、今すぐこの薄っぺらいドアを蹴破って飛び出してしまいたい。そうしたら、地面到達までの数秒間、僕はきっと誰よりも自由になれる。でも、と僕は考える。その数秒間、簡単に生を手放した事を誰よりも悔むんだろう。

例えばもし、本当にこのドアの向こうに身を躍らせたら、数秒後に僕は、それこそ溶けかかったストロベリーチョコレイトのような凄惨な死に様を晒す事になる。だけど同時に、僕の魂はとても静かで透明な世界にふんわりと降り立っているんじゃないかって、そのギャップにくすりと笑ったら、彼女は満足げに頷いてみせ、再び滔々とくだらない言葉を散らかし始めた。


5. Hot Chocolate
君の笑顔は、まるでホットチョコレイトだね。
私は、そんな君が大好きなのだけど。


6. Glico, Chocolate, and Pineapple
有名な伝承遊びの一つに、「じゃんけんグリコ」というものがある。地域によっては、「グリコ・チョコレート・パイナップル」とも言う。主に階段で遊ぶゲームで、じゃんけんをしてグーで勝てば「グ・リ・コ」と言いながら3歩、チョキ、パーで勝てば「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト」、「パ・イ・ナ・ッ・プ・ル」と言いながら6歩進むことができ、最終的に一番早くゴールしたプレイヤーが勝者となる、極めて単純かつ明快なゲームである。
何故グーで進める歩数だけ少ないのか。ここは敢えて「グ・リ・ン・ピ・イ・ス」などの語を用いる事で、どの手で勝っても6歩進めるルールを採用しても良かったのではないか。しかし、この不平等が絶妙なゲームバランスを生みだしていると考えられる。
チョコレイトとパイナップルで勝てば、グリコで勝つ際の2倍の距離を稼ぐことができる。それ故ゲーム開始時、グリコを避け、チョコレイト及びパイナップルを出す傾向が多くのプレイヤーに見られるようになる。しかし、ゲーム初期段階に差し掛かると、グリコが忌避される状況下においては、チョコレイトを出すことで、勝ちか、少なくともあいこに持ち込める事に気づいたプレイヤーが、チョコレイトを頻繁に出すようになる。そこで、ゲーム中盤になると、チョコレイトが有利だとみなしているプレイヤーを出し抜くべく、敢えてグリコを出すプレイヤーが現れ始める。しかし、ゲーム終盤には、やはりその行動を見切って、パイナップルを出す事によって、グリコで勝てると思い込んでいる相手の裏をかこうという戦略が可能になってくる。
以上に述べてきたように、相手の裏の裏の裏まで読むようなじゃんけんをしているうちに、ふとその無意味さを感じる瞬間が訪れる。
その時こそ、プレイヤーは無の境地に達し、真の自由人としてじゃんけんグリコを楽しめるのだと信じてやまない。


7. There are nothing but Chocolates
…逆にさ、
チョコレイト以外のものは何も食べるな、とか決められちゃったら、
多分、チョコレイト嫌いになる。
食べたい時に食べたい分だけ食べられるから、ずっと好きでいられるんじゃないの?


9. There are no Chocolates
もしこの世から突然チョコレイトがなくなってしまったら、どうやって生きていけば良いのだろうか。
三秒くらい、頭が真っ白になって、
三分くらい、ただおろおろするばかりで、
三時間くらい、泣き続けるかもしれない。
三日くらいじゃ、傷はきっと癒えない。でも、
三週間くらい経つと、悲しみも少しずつ薄れて、諦める事を覚え出すかもしれない。
三カ月後には、チョコレイトのない生活に慣れている自分にはっと気づくのかもしれない。
三年後には、チョコレイトなんてのもあったなぁ、とごく稀に思い出すのかもしれない。
三十年後には、チョコレイトの事なんて口に出すと、懐古主義だな、なんて笑われてしまうかもしれない。
三百年後には、(運が良ければ)チョコレイトそのものがなくても、「チョコレイト」という単語くらいはどこかの文献に見出せることがあるかもしれない。でも、
三千年後には、もはやチョコレイトそのものを誰一人として知らないだろう。

そんな風に少しずつチョコレイトは風化していくのだろう。
そして、
あなたも、私も、いずれは。


10. Last Chocolate
口に入れると
        ゆっくり 
             と
                    け
                  て
                  い
                        っ