最近、fuzkueというカフェの存在を人づてに知りました。

東京の初台にあるカフェで、「読書をする時間を過ごす」ことに徹底的にこだわったカフェなのだそうです(まだ行ったことがないのですが、是非行ってみたいです)。
こちらのカフェでの過ごし方をまとめたページを読むと、店主の思想がすごく伝わってきます。

このページによると、おしゃべりはだめ、PCもほぼ使用不可(タイピング音、クリック音を極力減らすため)、でもコーヒー一杯でも気が済むまで何時間いてもいい(席料制をとっている)のだそうで、読書時間に対する素晴らしいこだわりを感じられます。

カフェの紹介ページには、
漠然と謳われる自由よりも制限され明文化された自由の中でこそ人は本当に自由を感じられる、リラックスを妨げる「察するコスト」を可能な限り削ぎ落とすことによって心地よく過ごしていただける環境を用意したい、と考えています
 とあります。

この言葉がすごく深いなと思ったので、今日はそのお話をしましょう。

「自由にお絵描きしてみましょう」

制限がある、というと、息苦しく窮屈な感じがして、私はなんとなく嫌いでした。
そこから一歩でもはみ出すと叩かれたり、罰せられたりするのではないか、というイメージが強くあったからです。
ですので、この店主の言葉がかなり新鮮に感じられたんですね。

制限があるからこそ、自由を感じられる。
そんな実例がないかな、と考えていて、ふと昔のことを思い出したので、ちょっとお話ししましょう。

小学校の頃の図工の時間、水彩絵の具で机いっぱいの大きな紙に「自由」に絵を描いたり、色を塗ったりしよう、というグループワークがありました。

「自由」と言うのだから、思いっきり「自由」に、手に絵の具を塗ってべたべたと手形をつけてみたり、いろいろな色をたくさん混ぜて塗り広げたり、無我夢中で紙の上で「自由」を表現していました。
さらには紙を飛び出し、机やお互いの手や顔にまで絵の具を塗っていました笑

すごく怒られました。

それは自由でなく、めちゃくちゃだと。
そういうことをやってほしいんじゃないと。

この時の、みじめで死ぬほど悔しかった気持ちは、今でも忘れられません。

なんで怒られなきゃいけないの。
こんなの全然「自由」じゃない。
第一ふけば落ちるじゃん。(←笑)

お互いが自由に過ごすための制限

「こういう理由で制限をかけるよ。でも、その範囲ならば自由に過ごしてOKだよ!」というのが明確化されているからこそ、自分も相手も気持ちよく過ごせます。

上記の例で言うなら、
「掃除があとで大変になるのを防ぐのと、授業としての秩序を保つため、紙の上だけで自由に表現しましょう」と事前に制限があれば、お互い気持ちよく授業を終えられたのでしょう(ここまで「自由」に描くなんて想定外だったのかもしれませんが)。

「自由」によって誰かを傷つけたり、不愉快にさせてしまう時、たとえ自分にそのつもりがなくても、自分勝手やわがままと相手に受け取られてしまいます。
そう考えると、制限や制約によって、行動範囲のボーダーラインがはっきり見えるようになり、不本意に自分が自分勝手な加害者になってしまうことを防げるのではないか、制限によって逆に自分が守られていることもあるのではないか、と思いました。

まとめ

制限、というのは必ずしも自由と対立するものではなく、むしろ自由を援護してくれることもあるのだ。

今回の記事を書いてみて、改めて腹落ちしました。