※今日は大分長文記事になってしまいました笑
アニメ版で公開されているぼのぼのはギャグ要素が強いのですが、今回見た映画はもっと哲学的で、大人向けのシリアスな作品でした。
あらすじとしては、ぼのぼのの住む森に巨大な生き物がやってくるという噂が流れ、アライグマくんに連れられてぼのぼのとシマリスくんが一緒に見に行くとお話なのですが、その中でも印象深かったシーンについて話します。
以下、盛大にネタバレに注意です。
***
物語の中盤にスナドリネコさんの回想シーンが挟まれ、数年前にもその巨大な生き物が来たことがわかります。それと時を同じくして、スナドリネコさんもまたどこからかぼのぼのの森にやってきたのでした。そして、当時森を治めていたヒグマの大将と傷だらけになりながら争うのです。
「死にたいのか」と問うヒグマの大将に、スナドリネコさんは「我慢ばかりしながら生きていると、我慢することで物事を解決したくなる」と答えます。
ヒグマの大将は、おまえは何かに命をかけることで物事を解決できると思っている、と指摘し、たたみかけるようにこう言うのです。
「生き物はなぁ、生きていることがすべてよ。生きていることがすべてだからこそ、大きいも小さいも関係ねぇんだよ。
それを誰かが、何かの目的に命をかけ始めたらどうなる?俺たちはそのうち何か目的がないと生きられねぇ馬鹿な生き物になっちまうだろうよ」
「てめぇは何かの目的がねぇと生きていけねぇ馬鹿野郎だよ!
目的のために生きる奴はな、嫌でも我慢強くなるもんさ。そういうやつがこの森に一匹でも現れたら、他の生き物はどうあがいてもそいつには勝てねぇよ。なぜなら、そいつは死ぬまで”まいった”とは言わねぇんだからな。
その先はどうなる?この森にいる やつらはみんな、自分と、自分の家族を守るために、おめぇと同じように命をかけ始めるのよ。それがどんな世界の始まりか、おめぇにはわかるか!」
この部分と呼応するように、一番最後にぼのぼのとスナドリネコさんが会話するシーンがあります。
ぼのぼのは、物語を通じて楽しい事は何故終わるのか、と自問し続けるのですが、最後にその質問をスナドリネコさんにぶつけるのです。
スナドリネコさんは、それは苦しい事も終わるためで、この世にあるのはすべて必ず終わるのは、生き物が何かをやるために生まれてきた証拠ではない、生まれてきたのは、見ることができるもの見るためかもしれない、というのです。
そして、ぼのぼのと対話するのです。
ぼのぼの「みてるだけなの?」
スナドリネコ「そう、しっかり見てればいいんだ」
「でもみてるだけじゃ、つまらないんじゃないかな」
「そう、退屈するかもしれないな。必ず終わってしまう事は、そういう時のためにあるんだ。退屈したら、なんでもやってみればいい」
「あぁそうかぁ………じゃあ、ぼくたちは、なんだかすごく簡単なんだねぇ!」
***
スナドリネコさんが森に来るまでの具体的な来歴は語られないのですが、ぼのぼのの住む森にやってくるまでは、強くて勝ち組で優れていることが善、弱くて負け組で劣ることが悪、という価値判断がなされる世界にいたのではないかと感じました。
それは、野生の世界でただ生きるということと違う、まるで人間社会のような不自然なもので、ヒグマの大将のいう「生きていることがすべてだからこそ、大きいも小さいも関係ねぇ」世界とかけ離れたものだったのではないか、と思うのです。
もっと言うと、かつてのスナドリネコさんの世界における価値基準は「~ができること(to do)」や「~を持っていること(to have)」、つまり能力や財をもつかどうかで優劣が決まるもので、ヒグマの大将が理想とする「私であること、生きていることそのもの(to be)」に価値が置かれる世界と対比されているのではないかと考えます。
前者では、争いが生まれ、他を押しのけてでも自分が優位に立とうとする殺伐とした社会になっていくでしょう。ヒグマの大将は森にそんな世界が生まれるのを恐れたのではないかと思います。
ですが、ぼのぼのの森に暮らす中で、見られるものを見るために生きるのだ、とスナドリネコさんは考えを改めたようです。
生きるのに「他者より強くあって勝たねばならない、優位に立たねば意味がない」というのではなく、目の前にあることを楽しむ、楽しくなくなって退屈してしまったら、なんでもやってみればいい、スナドリネコさんは優しく諭すのです。
***
この記事を書きながら、物語中の台詞が後からじわじわと心に響いてきました。
何度も繰り返し見たくなる作品です。