いきなり例え話をします。

全く同じチョコレートを食べていても、
疲れてお腹が空いている時に食べると「特別おいしい」と感じても、満腹の時に食べれば「さほどおいしくない」と感じることもあります。
つまり、同じ体験でも、自分のコンディション、置かれた環境などの諸条件で評価が変わります

②同じチョコレートを食べて、
自分は「とても甘い」と感じていても、相手は「そんなに甘くない」と感じるかもしれません。
つまり、同じ体験でも、人によって評価が変わります

そんな風に、形容(動)詞による評価は、時と場合によって案外ぶれるものです
「よい/わるい」「ただしい/おかしい」「優れた/劣った」…などの評価も然り。
時と場合でぶれまくります。

ですので、
チョコレートを「おいしくない」と感じるなんて「おかしい」から直すべき!と考えたり、チョコレートを「とても甘い」と感じてしまう自分の舌は「劣っている」んじゃないかと責めるというのは、とかくぶれやすい「おいしくない」「甘い」という評価に対してさらに「おかしい」「劣っている」とぶれやすい評価をくだしている、ということです。
もはやぶれぶれですね笑


上に書いたようなチョコレート問題だと、評価を評価する文は不自然と気づくのですが、この「●●がおいしくない」「●●がとても甘い」が「●●がつらい」「●●が哀しい」などに置き換わる時、その不自然さに気付けず、自分の首を締めることになりがちです。

①ものすごく疲労がたまっている時、普段なら笑って聞き流せる友人の冗談がやけに胸に刺さって、涙が出そうだった。でも「つらい」なんて思う自分は「まちがっている」。だって、いつもはたいしたことないんだから。
②恋人の一言が私はすごく哀しく、傷ついた。でも友人に相談したら、気にし過ぎじゃない?と言われた。ちょっとしたことで「哀しい」と感じてしまう自分は「弱くてだめ」なんじゃないか。

あるある、ですよね笑

チョコレートを「おいしくない」「とても甘い」と感じたように、出来事に「つらい」「悲しい」と感じることを禁止しなくていいのです
なぜなら時によって、人によって、評価が変わるから、「この状況では●●と感じることになっている」というような「正解」は決められないからです。

私はよく「こんなことを思う自分はダメなのでは…甘えなのでは…」という思考になりがちなのですが、同じように自分の(特に負の)感情によくダメ出してしまう人は、こう考えると少し気楽に生きられるかもしれません。